『Climate Leviathan: A Political Theory of Our Planetary Future』(Geoff Mann & Joel Wainwright, 2018)


『Climate Leviathan: A Political Theory of Our Planetary Future』(ジョエル・ウェインライト&ジェフ・マン, 2018)は、気候変動が引き起こす人類社会の変容とその政治的帰結を、現代の政治理論、特に主権・ガバナンス論の視点から包括的かつ批判的に捉えた先鋭的な著作である。本書は、現在進行中の気候危機が、20世紀的な国民国家体制や新自由主義的なグローバル経済秩序、民主主義や平等といった理念そのものを根本的に動揺させ、新しい地球規模の統治=「プラネタリー・ソブリンティ」(planetary sovereignty)、すなわち人類全体を対象とした主権権力の出現を予見し、そこに生じる権力構造の再編と社会運動の可能性を多層的に論じている。
著者たちは本書の冒頭で、気候変動がもはや将来的な危機や「遠い脅威」ではなく、すでに世界各地で現実に破局的な影響をもたらし始めている事実を確認する。猛暑、干ばつ、森林火災、洪水、超大型台風、海面上昇、種の絶滅、そして極端な異常気象といった現象が、「かつてない速度と規模」で進行している。しかも、その最も大きな被害を受けているのは、経済的・政治的に最も脆弱な貧困層やグローバル・サウスの人々であり、動物や生態系である。このような危機的状況の根底には、人類の産業活動による二酸化炭素等の温室効果ガスの大規模排出があり、地球温暖化を加速させている。しかし、その歴史的責任の大半は「富裕な少数派」、すなわちグローバル・ノース(先進国)の消費社会とそれを主導するエリート層にあると、著者は明確に指摘する。
ここで著者たちが強調するのは、いま人類が直面する気候危機が、単なる「環境問題」や「テクノロジーの失敗」ではなく、まさに社会の根本的な制度、経済、政治体制の「帰結」であり、「惑星規模の歴史的転換点(Anthropocene)」の到来である、という認識である。「Anthropocene(人新世)」という用語自体、地球環境が決定的に人類活動によって規定される時代を表すが、著者たちは「人類」という普遍的主体に疑問を投げかける。実際には、世界の誰もが等しく加害者であり被害者であるわけではなく、むしろ巨大な格差と不平等のうえに成り立つ世界秩序が、危機の本質であるとする。この「人新世の政治性」を問うことが、本書全体の出発点である。
本書の骨格となる理論的枠組みは、17世紀イギリスの政治思想家トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を参照しつつ、「Climate Leviathan(気候リヴァイアサン)」という概念を中心に展開される。ホッブズは、社会契約による絶対的主権者(リヴァイアサン)が無秩序な自然状態に秩序と平和をもたらすと論じたが、著者たちはこの枠組みを「気候変動を契機とした新しい主権権力の出現」として読み替える。すなわち、気候危機のなかで各国の政府や資本主義的エリートは、「地球全体を単位とした主権的な管理体制(プラネタリー・ソブリンティ)」の構築に向かう。それは、国境を越えた協調的統治・国際法体制(例:パリ協定やIPCC等)として現れるが、その本質は依然としてグローバル資本主義の論理と、強力な国家・大企業による主導にある。
著者はこの「Climate Leviathan」に対して、ほかに三つのモデルを提示する。ひとつは「Climate Behemoth(気候ベヒーモス)」であり、これはアメリカや中国などの強大な主権国家が、国際協調やグローバル統治を拒絶し、「自国第一主義」「反グローバリズム」「化石燃料依存」といった排他的・保守的な道を進む構図である。もうひとつは「Climate Mao(気候マオ)」で、徹底した国家介入や集権的統制によって気候危機に対処しようとする社会主義的な体制を想定する。そして最後が「Climate X」と名付けられた、上記いずれのモデルにも当てはまらない、脱資本主義的かつ分散型・民主的なラディカル・オルタナティブである。著者たちはこの「Climate X」を希望の可能性として残しつつ、現実的には「Climate Leviathan」が最も現実的で、かつ危険な帰結であると論じている。
「Climate Leviathan」体制の本質は、グローバル資本主義の論理を維持しつつ、気候危機を「管理」し、「適応」するための惑星規模の主権的統治の確立である。著者たちは、パリ協定やカーボン・マーケット、「グリーン・ニューディール」的なグリーン資本主義政策が、その萌芽であると指摘する。これらは一見すると「気候正義」や「持続可能性」を目指すようにみえるが、実際にはグローバル資本主義の延命装置として機能し、根本的な不平等や搾取の構造を温存する可能性が高い。カーボンオフセットや排出権取引といった市場的メカニズムは、新たな格差や不正義を生み出し、「気候危機の管理」そのものがビジネス化され、グローバル・ノースの利益確保の道具になる。すなわち、「気候正義」を語りつつ、実際には支配的秩序の再編・強化が進行するという逆説的現象である。
著者たちはまた、「適応(Adaptation)」という概念の政治性にも注目する。近年の国際的な気候変動政策は「緩和(Mitigation)」から「適応」への軸足移動がみられるが、これは危機の不可避性を前提としたリスク管理型の政策論である。「適応」政策の多くは、災害時の救済やインフラ整備、防災投資、保険商品の開発など、新たな市場機会や国家権力の拡大と不可分である。こうした「適応」の名のもとに、むしろ脆弱な人々や国々が「自己責任」を押し付けられ、グローバル資本の論理に再び包摂されていく危険性が強調される。
このような「Climate Leviathan」の到来が現実味を増すなかで、著者たちはラディカルなオルタナティブの可能性を模索する。それが「Climate X」である。「Climate X」とは、未だ具体的な形を持たないが、既存の国家主権体制や資本主義的生産様式を超えた、新しい民主主義や社会運動の可能性を指す。「気候正義運動(Climate Justice Movement)」やグローバル・サウスの民衆運動、先住民の権利闘争、ローカルな自律的エコロジー運動、反成長論、フェミニズム、ディープ・エコロジーなど、多様な社会運動が交錯しながら、新しい社会モデルの胎動が各地で始まっていると著者は言う。しかし、その展望は決して楽観的ではなく、現実には「Climate Leviathan」や「Climate Behemoth」の潮流が圧倒的であることも冷徹に認めている。
本書は、こうした多元的な分析枠組みを基礎として、以下の論点を展開する。
第一に、気候変動をめぐる「主権」「統治」「正義」の再編である。地球温暖化の進行とともに、国民国家を超えるスケールでの政策協調や国際合意が不可欠となる一方、主権国家の利害や大国間競争、「自国第一主義」といった分断も激化している。その狭間で、民衆の参加や民主主義、社会的正義がいかにして実現しうるのかという根本的課題が浮き彫りになる。
第二に、気候危機がもたらすグローバルな不平等と新自由主義的統治の批判である。著者たちは、カーボン市場やグリーン投資、パリ協定といった「グローバル気候ガバナンス」が、しばしば「気候危機の新しいビジネス化」として機能し、結果として富裕国と多国籍企業が利益を独占し、被害や負担は貧困国や周縁の人々に転嫁されている現実を厳しく批判する。特に「適応」を名目とした開発援助や保険ビジネス、災害リスク商品などは、新たな「収奪のメカニズム」となりかねない。
第三に、「適応と緩和」両政策の限界と、構造転換(トランスフォーメーション)の必要性である。著者は、現行の「緩和政策(排出削減)」や「適応政策」が持つ構造的限界を指摘し、「本質的な転換=脱成長、脱資本主義、脱植民地主義的ガバナンス」を訴える。これは、単なる政策の修正や技術革新ではなく、経済・社会・文化の根本的変革を含意するものである。
第四に、実践的・理論的オルタナティブとしての「Climate X」の可能性である。「Climate X」は、単一の青写真を持たないが、むしろ多様な運動の連携、知の協働、ローカルな実験、グローバルな連帯、エコロジカルな倫理、非暴力的レジスタンス等の多層的な実践の総体として構想されている。著者たちは「Climate X」を現状批判の理論的武器としつつも、その道は決して平坦ではなく、「未踏の可能性」として慎重な展望を述べている。
総じて本書は、単なる気候変動政策や環境思想の解説書ではなく、グローバル資本主義・主権・正義・民主主義といった20世紀的な社会制度の限界を徹底的に批判し、気候危機を突破口とした新しい地球規模の社会変動の理論と実践を追求している。そのため、政治哲学、グローバル・ガバナンス論、批判的社会理論、環境正義論、現代思想など幅広い学問領域に跨りつつ、具体的な国際政策や社会運動、経済現象にも鋭く切り込んでいる点が特徴的である。
とりわけ本書が重要なのは、気候危機の時代に「誰が、どのような権力と価値観で、地球全体を統治するのか?」という「惑星的主権」の問いを正面から提起した点である。単なる技術的解決や協調外交への期待を超え、社会の根本的な変革を問うラディカルな思考が、今後の「気候正義」論や新しい国際政治の展開に不可欠であることを、本書は明らかにしている。
このように『Climate Leviathan』は、気候変動が孕む「新しい世界秩序」と「もうひとつの地球社会」の可能性、その矛盾と困難、希望と絶望を理論的・歴史的・実践的に描き出す、現代の気候政治論の金字塔的著作である。
Contents(目次)
- List of Figures
図表一覧 - Preface
序文
PART ONE
第1部
- Hobbes in Our Time
現代におけるホッブズ - Climate Leviathan
気候レヴィアサン
PART TWO
第2部
- The Politics of Adaptation
適応の政治 - The Adaptation of the Political
政治の適応 - A Green Capitalism?
グリーン資本主義か? - Planetary Sovereignty
惑星的主権
PART THREE
第3部
- After Paris
パリ協定以後 - Climate X
気候X
- Notes
注釈 - Index
索引
Figures(図表)
1.1 Atmospheric CO2, past 10,000 years
1.1 過去1万年の大気中CO2
1.2 Monthly mean atmospheric CO2, 1958–2017
1.2 1958年〜2017年の月平均大気中CO2
2.1 Global energy consumption, fossil and non-fossil fuels, 1971 and 2014
2.1 世界のエネルギー消費(化石燃料・非化石燃料)1971年と2014年
2.2 Four potential social formations
2.2 想定される4つの社会形態
2.3 CO2 emissions per capita, 2010, projected on a cartogram distorted to show
the number of people exposed to droughts, floods and extreme temperatures in 2000–2009
2.3 1人当たりCO2排出量(2010年、2000〜2009年の干ばつ・洪水・極端な気温への曝露人口で歪めたカートグラム上)
3.1 Rising temperatures and risks
3.1 気温上昇とリスク
5.1 Cumulative CO2 emissions by country, percent of world total, 1850–2011
5.1 国別累積CO2排出量(世界総排出量に占める割合、1850〜2011年)
5.2 Deutsche Bank’s National Infrastructure Bank Model
5.2 ドイツ銀行の国家インフラ銀行モデル
5.3 A “Green” Recovery for Global Capitalism
5.3 グローバル資本主義のための「グリーン」回復
7.1 Goldman Sachs headquarters illuminated during Hurricane Sandy, 2012
7.1 ハリケーン・サンディ襲来時のゴールドマンサックス本社(2012年)
パート1は、「Hobbes in Our Time」と「Climate Leviathan」という2章から構成されている。ここでは、近年の気候変動の現実がいかに従来の政治理論や主権の枠組みを動揺させ、今後の地球社会の運命を決定づける存在となるのかを、哲学史・政治経済学・批判理論を参照しながら大胆に論じている。特に、17世紀イギリスの思想家トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』における「主権者=リヴァイアサン」の概念が、なぜ現代の気候危機においても中心的なメタファーとなるのか、その歴史的背景と理論的含意が深く掘り下げられている。
パート1の冒頭では、気候変動がいまや未来の危機ではなく、「現在進行形のカタストロフ」として現実のものとなっていることが強調される。平均気温の上昇、異常気象、生態系の崩壊、海面上昇、山火事や台風の激甚化といった現象が全地球的なスケールで進行しており、その影響は人類社会に根源的な変化を迫っている。しかも、その被害は途上国や貧困層、弱者により深刻に現れているにもかかわらず、責任の多くは歴史的に「豊かな少数派」であるグローバル・ノースの人々にあることが明確に述べられる。
著者たちは、こうした現状を「人新世(Anthropocene)」という言葉で特徴づけ、人類の活動が地球の生態系・地質・気候に決定的な影響を与える時代への転換点にいると述べる。しかし、ここで重要なのは「人類」という均質な主体など実在しないという認識である。実際には、加害と被害の構造には大きな偏りがあり、気候変動がもたらす不平等や抑圧の現実を直視することが、本書の理論的出発点となる。
1章「Hobbes in Our Time」では、ホッブズの『リヴァイアサン』の議論と、現代のグローバル危機とのアナロジーが展開される。ホッブズが17世紀のイングランド内戦というカオスのなかで、無秩序を終息させるために「絶対的な主権者(リヴァイアサン)」を必要としたように、現代の気候危機もまた、既存の主権概念や政治制度の限界を露呈させている。カール・シュミットやヴァルター・ベンヤミン、ジョルジョ・アガンベンら現代思想の議論も援用しつつ、「例外状態(state of exception)」がいかにして常態化し、国家や超国家的主体による強力な統治=管理の枠組みが求められるのかが分析される。
とりわけ、ベンヤミンの「抑圧された階級にとって『非常事態』は常態である」とする視点は、気候危機においてグローバル・サウスや貧困層が直面する「持続的非常事態」と直結する。ここで「安全保障(security)」が国家統治の中核的パラダイムとして拡張され、気候危機の時代には、この「セキュリティ」の名のもとに、監視・管理・抑圧の強化が正当化される可能性が高いことが示唆される。経済危機やテロ対策だけでなく、気候変動への対応が「例外状態の恒常化=主権の拡大」として現れる、という分析は現代社会の本質を鋭く抉っている。
また、1章後半では産業革命以降の化石燃料文明がもたらした大気中CO2の劇的な増加(いわゆるホッケースティック曲線)と、世界のエネルギー・経済インフラが「排出ロックイン」されている現状が詳細なデータとともに論じられる。国際エネルギー機関(IEA)による「既存インフラのせいでパリ協定の1.5度目標は事実上不可能」という指摘や、国家間・エリート間の経済的利害による現状維持バイアスも検討される。こうした状況のなかで、「気候危機の本質は資本主義の持続・利益の維持と深く絡み合っている」と著者らは冷徹に分析する。
2章「Climate Leviathan」では、本書の基軸となる概念が展開される。著者は「気候危機に直面する21世紀世界がたどりうる未来」として4つの類型を提示するが、ここでは「Climate Leviathan(気候レヴィアサン)」が特に重視される。「Climate Leviathan」とは、気候危機への対応を名目にグローバル資本主義を維持しつつ、主要国家群(米・中・EU等)や超国家的主体が「惑星規模の主権的統治体制(planetary sovereignty)」を志向し、規制・監視・管理・危機対応の権限を集中させていく未来像である。
この「気候レヴィアサン」は、一見すると「グローバル協調」「気候正義」「持続可能性」といった理念を標榜する。しかし実際には、カーボン・マーケットや排出権取引、グリーン資本主義政策を通じて、既存の権力構造や経済秩序を再生産・強化するものにすぎない。気候変動対策が「地球的危機管理」として強権的に実施されることで、「民主主義や社会的正義」の理念が空洞化し、グローバル・サウスや周縁地域の人々が再び犠牲にされる危険性が高いと著者らは警告する。
この章ではさらに、既存の国際体制や主権国家システムが気候危機の前にどこまで有効かを検討しつつ、「気候レヴィアサン」の成立条件と内在的矛盾を掘り下げている。パリ協定をはじめとする国際合意の現実的限界や、国家主権を超えたガバナンスの困難、そして「セキュリティ」を名目とした監視・管理の強化がどのような倫理的・社会的コストを伴うのかが具体的に論じられる。こうした枠組みのもと、気候危機が「単なる環境問題」ではなく、むしろ「主権」「正義」「自由」の問題として世界秩序の根本的な変容を迫るという本書の理論的スタンスが明確になる。
パート1全体を貫くのは、気候危機という「例外状態」を契機として、現代世界の政治経済体制が抜本的に問い直されるべきであるという問題意識である。著者たちは、技術革新や部分的な政策修正、あるいは市場メカニズムによる解決が「根本的転換(transformation)」には到底至らないことを明確に指摘する。そのうえで、「グローバル資本主義の自己再生産(延命)」と「新たな主権権力の台頭」という二重の力学のなかで、「惑星的統治(planetary governance)」がいかなる形態を取るのか、またその帰結が誰の利益と犠牲の上に成り立つのかを厳しく問う。
本書の知的貢献として特筆すべきは、気候変動という現象を「物理的・科学的問題」ではなく、「政治・権力・経済・倫理・主権の問題」として根本から捉え直した点にある。パート1では、そのための理論的枠組みとしてホッブズ=リヴァイアサンの伝統を批判的に継承しつつ、現代のグローバル社会における主権概念の再構築と、気候危機時代にふさわしい新しい政治哲学の必要性を力強く提起している。
書評的に言えば、パート1は「なぜ気候変動が現代社会の“統治”のあり方、主権、正義、そして未来の社会構想までをも根底から揺るがすのか」という問いに、鋭い理論的視座と豊富な実証データをもって応答する一章である。単なる環境論・政策論ではなく、政治理論と現代社会分析を横断する野心的な試みとして、本書のスタンスを決定づける導入部であるといえる。とくに、気候危機を「管理」や「適応」の問題として矮小化するのではなく、社会全体の変革(もしくは支配の強化)という観点から徹底的に批判し直す点は、他の気候政治論と一線を画している。著者たちの主張は、気候危機が「科学・技術・経済の課題」にとどまらず、むしろ「権力・統治・自由・正義の問題」であることを力強く示し、読者に現状の枠組みを超える想像力と批判的思考を促すものである。
総じてパート1は、気候変動をめぐる現代世界の「統治の危機」と「新たな主権権力の出現」という、21世紀の最も根源的な問いを突きつける理論的基盤としての役割を果たしている。
パート2は、「The Politics of Adaptation」「The Adaptation of the Political」「A Green Capitalism?」「Planetary Sovereignty」の4章から成る。本書の中核であり、著者たちが現実的に最も到来の可能性が高いとみなす「Climate Leviathan」という新たな主権的体制(惑星的ガバナンス)が、気候危機下でどのように出現し、機能し、また内在的な矛盾や限界を持つのかを多面的に掘り下げるパートである。
パート2はまず、気候変動への社会的・政治的応答が「適応(Adaptation)」の論理を強めている現実を分析する。ここで言う「適応」は単なる科学的・技術的課題ではなく、むしろ政治経済構造の再編そのものであり、誰がどのような利益を得て、誰が犠牲となるのかという権力・正義の問題と深く結びついている。著者たちは、国家や国際組織、巨大企業などのアクターが「適応」を新たな統治戦略として積極的に導入し、危機を口実に監視・規制・管理を強化していく過程を詳細に検討する。その一方で、「適応」の名のもとに不平等や搾取が再生産され、グローバル・サウスや周縁化されたコミュニティが再び犠牲になる構造を強調する。
次に、「政治の適応(The Adaptation of the Political)」が論じられる。ここでは、気候危機を契機とした社会の変容が、制度や政策の変化を超えて、「政治そのもの」の意味や枠組みの再編につながっている点が強調される。すなわち、主権の単位、責任の所在、正当性の根拠など、20世紀型の国民国家体制が前提としてきたあらゆる要素が、気候変動を前にして根底から問い直されることになる。とりわけ、地球温暖化の管理や「カーボン排出の制限」といった課題が、国家や国際社会の既存の権力配置を強化し、「例外状態」の常態化を招く危険性が示唆される。著者たちはここで、「セキュリティ」を巡る新しい統治形態(バイオポリティクスや災害資本主義)の萌芽がすでに見え始めていると指摘する。
続く「グリーン資本主義?」の章では、「Climate Leviathan」の体制がどのような経済政策・社会モデルをとりうるかを批判的に分析する。ここで登場するのが、「グリーン・ニューディール」「カーボン・マーケット」「持続可能な開発」といった近年流行の政策パッケージである。著者たちは、これらが「気候正義」や「持続可能性」を標榜しながらも、実際にはグローバル資本主義の枠組みを温存・延命させ、現状の権力構造や不平等を再生産する装置であることを明確に批判する。例えば、カーボン・オフセットや排出権取引は、新たな収奪のメカニズムとなり、富裕国や多国籍企業が気候危機を新たなビジネスチャンスとして利用する構図が描かれる。この「グリーン資本主義」こそが「気候レヴィアサン」の最も現実的な経済基盤となりうると同時に、根本的な社会変革を阻む最大の障害でもあると著者たちは述べる。
「惑星的主権(Planetary Sovereignty)」の章では、これらの流れが統合され、「主権(sovereignty)」という近代政治の根本概念が、気候危機時代にいかに再編されつつあるかが深く考察される。著者たちは、従来の「国民国家主権」がグローバルな規模で再構築され、「惑星的主権」という超国家的な統治体制が現れる可能性を論じる。この新しい主権の担い手としては、アメリカ、中国、EUなどの大国連合や、世界銀行・IMF・国連・G20といった国際機関、あるいはグローバルなテック企業や金融資本が想定される。こうした「惑星的主権」は、気候危機を名目にして例外状態(state of exception)を常態化させ、規制・監視・強制力を強化しうるが、それが本当に「気候正義」や民主主義、平等を実現するものとなる保証はない。
このパート全体の知的意義は、現代世界の気候変動対応が単なる技術論や政策論にとどまらず、まさに社会構造の根底を成す「主権」「ガバナンス」「正義」の再編という決定的な歴史的転換点にあることを、理論的・歴史的・現実的な観点から一貫して論証している点である。著者たちは、「適応」や「グリーン資本主義」といった一見前向きなキーワードが、現状維持や支配秩序の再生産に利用されやすいことを批判し、より根本的な社会変革(すなわち資本主義・帝国主義・植民地主義の構造自体の転換)がなければ本当の「気候正義」は実現しないと主張する。そのために必要なのは、単なる政策の修正や新技術の導入ではなく、政治的主体の再構築や、社会運動の新たなネットワーク化、現行のグローバル秩序への抜本的な批判的再編である。
また、パート2の各章では具体的な事例や現実の動向も多数取り上げられている。たとえば、パリ協定や国際気候会議の限界、大規模インフラや資本投資の「排出ロックイン」効果、世界の主要銀行や企業によるグリーン投資戦略の実態、また気候危機をめぐる国際政治・地政学の変容などが実証的に分析されている。こうした現実への鋭い洞察と、理論的フレームワークの緻密な構築が見事に組み合わされており、本書の独自性と説得力を高めている。
書評的に評価すると、パート2は「Climate Leviathan」というコンセプトを通して、21世紀の気候危機時代における主権、統治、資本主義、正義の問題系を立体的かつ多面的に描き出すことに成功している。単なる危機管理やグリーン・ビジネスの表層にとどまらず、危機対応を通じて進行する新たな「支配」のメカニズムや、見かけ上の「協調」と実質的な「抑圧」の並存という現代世界の深い矛盾を徹底的に可視化している点は圧巻である。
また、著者たちが単に現状批判にとどまらず、現実の政策や社会運動に対しても具体的な理論的武器を提供していることも重要である。特に、気候危機への対応策が「誰のため」「何のため」「どのような価値観にもとづいて」進められているのかを問う姿勢は、現代の環境政治を根本から問い直すものであり、単なる理想主義やテクノクラシーでは到達しえない批判的深度を持つ。
総じてパート2は、気候危機を契機とした「新たな世界秩序」の生成とその危険性・可能性を理論的・実証的に浮き彫りにし、現代社会が直面する最大の課題に対して、真正面から応答することの意義と困難を読者に突きつけている。
パート3は、「After Paris」と「Climate X」の2章で構成される。ここでは、パリ協定以後の現実的な気候政治の展開を批判的に検証しつつ、「Climate Leviathan」だけではない、よりラディカルで未確定なオルタナティブとしての「Climate X」の可能性と限界が探究される。本書全体の総括であると同時に、著者らが現代の気候危機をいかに「未来を切り拓く政治課題」として位置づけているかが、実践的かつ理論的に提示される重要なパートである。
まず「After Paris」では、2015年のパリ協定を象徴とする国際気候政策の現実的到達点と、その内在する矛盾や限界が検討される。パリ協定は「地球温暖化を1.5℃以内に抑える」という明確な目標を掲げ、先進国・途上国を問わず全ての国家に排出削減の行動を求めた。しかし著者たちは、この合意が実質的に法的拘束力を持たず、各国の自主的なコミットメントに依存している点を批判する。実際、協定後も世界のCO2排出量は増加を続け、抜本的な構造転換(トランスフォーメーション)はほとんど進んでいない。とりわけ、米国トランプ政権のパリ協定離脱や、中国・インドなど新興大国のエネルギー政策、EU諸国の内部分裂など、「Climate Leviathan」の実現すら危うい不安定な世界状況が明らかにされる。
さらに、パリ協定以後に登場したさまざまな「グリーン政策」や新たな社会運動、また投資・ビジネス主導の「グリーン・リカバリー」の動向も分析される。著者は、これらがしばしば「気候危機を新たな資本蓄積や権力集中のチャンスとして利用する側面を持つ」ことを批判的に論じる。つまり、グローバル資本や主要国家が気候危機を「支配の更新」の機会とみなす構造がパリ協定以後も色濃く残っており、真の意味での「気候正義」や「民主主義の拡張」はほとんど進展していない。現実の国際気候政治は、「Climate Leviathan」体制への移行すら途上で、むしろ「Climate Behemoth」(国家主義・反グローバリズム的リアクション)や、排除・抑圧の力学が先鋭化する危険性も孕んでいる。
このような状況を踏まえて、最終章「Climate X」では、「Climate Leviathan」でも「Climate Behemoth」でもない第三の可能性=「Climate X」が理論的に提示される。「Climate X」とは、著者たちがあえて未規定のまま残す「未来のオルタナティブ」であり、既存の主権国家・グローバル資本主義体制を根本から超える、新しい社会的・政治的連帯や運動の出現を志向するものである。著者らは、現時点では「Climate X」がどのような具体的形態をとるのかは定かでなく、「問いとしての力」や「否定性の保持」といったラディカルな実践・想像力のあり方に着目する。
この章では、すでに各地で萌芽的に現れている気候正義運動や、先住民の権利闘争、グローバル・サウスの民衆運動、ローカルなエコロジー運動、フェミニズムや脱成長思想など、既存の秩序の外部/周縁から湧き上がるさまざまなラディカル・アクターが、「Climate X」の可能性を担う主体となりうると評価される。しかし同時に、それらの運動がしばしば国家や資本による抑圧・協働化・包摂(コオプト)を受け、根本的な変革の可能性を発揮しきれない現実も冷静に分析される。
「Climate X」の核心は、「単一のグランドデザイン」や青写真を否定し、むしろ多様性・分散性・現場性・連帯性を重視する点にある。著者たちは、Climate Xを「未来の約束」や「万能の解」として掲げるのではなく、「現状批判の運動体」としての価値を強調し、常に現体制の外部を探究し続けるラディカルな態度の重要性を説く。ここで、「絶望でも楽観でもなく、行動と批判的思考の継続こそが未来を拓く鍵である」との哲学的立場が打ち出される。
パート3の最大の特徴は、「Climate Leviathan」という分析枠組みが示した世界秩序の未来像にとどまらず、それを乗り越える「オルタナティブ」を模索し続ける知的誠実さにある。著者たちは、現実の政治的・経済的構造の変化が容易でないこと、支配と管理のメカニズムが強固であることを認めつつ、それでもなお「変革の可能性」は閉ざされていないことを、理論と実践の両面から根気強く論じている。Climate Xの思想は、反体制的運動や社会運動、マイノリティのエンパワーメント、ローカルな実験や連帯行動、知の協働など、多様な「小さな実践」の積み重ねにこそ希望を見出すものである。
書評として評価するならば、パート3は本書全体の「問い」を未来へと解き放つ構成となっている。気候危機というグローバルなカタストロフの時代に、単なる悲観や現状追認ではなく、「新しい可能性への賭け」としてのラディカルな実践・批判・想像力を読者に訴える点で、現代気候政治論のなかでも特に意義深いセクションである。Climate Xの構想は、体系的な解や即効的な希望を提示しないがゆえに、「私たち自身が考え、動き、連帯し続けること」の意義を深く問いかける。現状の秩序の外部に常に可能性を残し続けるという態度自体が、Climate Leviathan批判の理論的・実践的エッセンスであり、未来を模索する知の営為そのものとなっている。
総じてパート3は、「気候危機の時代をどう生き、どのような社会と政治を切り拓くのか」という現代人すべてに突きつけられた根本問題に対して、分析と想像力を重ねつつ「開かれた問い」を差し出す、思想的にきわめて高い到達点を示している。
『Climate Leviathan: A Political Theory of Our Planetary Future』(ジョエル・ウェインライト & ジェフ・マン, 2018)は、気候変動の危機が21世紀のグローバル社会にどのような新たな統治体制、主権、経済・社会構造をもたらすかを、政治理論・批判的社会科学・歴史・現代思想の知見を総動員して描き出した野心的な書である。著者たちは、「気候変動」という現象を単なる自然科学の課題や政策論に還元せず、むしろ主権・正義・権力・民主主義といった近代社会の根本理念自体が転換を迫られている「惑星的転機」として位置付けている。
本書の出発点は、気候変動が「もはや将来の問題でも、遠い国の災害でもなく、現に全地球的な規模で、しかも最も弱い立場の人々や生態系を直撃している」という冷厳な現実認識である。異常気象、海面上昇、生態系崩壊、干ばつや洪水などが日常化し、経済・社会インフラへの負荷も増大する中で、問題の本質は単なる環境管理やテクノロジーの失敗ではなく、歴史的に形成されてきたグローバル資本主義、国家主権体制、不平等な世界秩序の帰結そのものである、という批判的な視座が強調される。
こうした現実を踏まえ、著者たちは「Anthropocene(人新世)」という時代概念の射程と限界を整理する。地球環境の主要な決定因が人類活動となったこの新時代は、だれもが等しく加害者でも被害者でもあるという「人類」という均質な主体像には回収できない、きわめて不平等で差異に満ちた構造を孕んでいる。「人新世の政治性」を問い直すこと――誰が責任を負い、誰が支配し、誰が犠牲を強いられるのかを明確にすること――が本書の根本課題となる。
この課題意識をもとに、著者たちはトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』に立ち返り、「Climate Leviathan(気候レヴィアサン)」というコンセプトを打ち立てる。ホッブズの時代において「無秩序から秩序を取り戻す絶対的主権者」が必要とされたように、現代の気候危機においてもグローバルな規模で「主権の再編=惑星的統治」の動きが強まるだろう、と著者は論じる。ここでいう「Climate Leviathan」とは、気候変動への対応を名目に、主要国家(米・中・EUなど)や国際機関、グローバル資本が、協調的かつ強権的な規制・管理体制を打ち立て、「惑星的主権(planetary sovereignty)」を志向する未来像である。
この体制では、表向きには「気候正義」や「持続可能性」「グリーン・ニューディール」といった理念が語られるが、実際には資本主義の論理が温存され、不平等や搾取の構造も再生産される。カーボン市場や排出権取引といった新たな経済メカニズムも、しばしばグローバル・ノース(先進国)や多国籍企業の利益確保と延命策として機能し、グローバル・サウスや周縁化されたコミュニティに犠牲を強いることが多い。
著者たちはさらに、「Climate Leviathan」のみならず、ほかにも3つのモデル――「Climate Behemoth(気候ベヒーモス)」=強大な主権国家による反グローバリズム・化石燃料依存、「Climate Mao(気候マオ)」=国家社会主義型の統制体制、そして「Climate X」=未知のラディカル・オルタナティブ――を理論化する。しかし、現実的には「Climate Leviathan」が最も実現の可能性が高く、しかもそれ自体が新たな支配や監視、管理の拡大を伴う危険な体制となりうることを強調する。
パート2では、とくに「適応(Adaptation)」や「グリーン資本主義」が、どのように気候危機の管理装置として機能し、また同時に現体制の延命装置となっているかを実証的に分析する。「適応」の名のもとに災害リスクが市場化され、脆弱な人々が「自己責任」を押し付けられる現実、「グリーン投資」や再生可能エネルギーが新たな格差や開発主義と結びつく現状、「惑星的主権」という概念のもとで国家や超国家的アクターが新たな権力集中を試みる動き――こうした全てが、気候変動対応が決して「公正」や「平等」を自動的にもたらすわけではないことを示している。
パート3では、パリ協定以後の国際気候政治を冷徹に分析しつつ、「Climate Leviathan」の限界と危険性、そして現状維持の強固さを浮き彫りにする。その上で、著者たちは「Climate X」と名付けた、既存の資本主義・国家主権体制を超えるラディカルなオルタナティブの可能性を模索する。この「Climate X」は、単一の青写真や設計図を持たず、多様な社会運動や現場からの抵抗、分散型・ネットワーク型の新しい政治・経済・倫理のあり方として構想される。現状ではまだ萌芽的で脆弱ではあるものの、気候正義運動、先住民の権利闘争、グローバル・サウスからのラディカルな知・実践、ローカルなエコロジー運動、フェミニズムや脱成長思想など、既存秩序の外部で展開される多様な実践が「Climate X」の担い手として描かれる。
著者たちの姿勢は、決して楽観でも悲観でもなく、「いかに現状の枠組みを超えて、連帯と実践、想像力を絶やさずに社会変革の可能性を開いていくか」にこそ力点が置かれている。「Climate Leviathan」の成立は、気候危機時代の現実的な帰結であるが、それが自動的に正義や民主主義をもたらすものではなく、むしろ新たな支配や抑圧の危険も孕むことを忘れてはならない。その外部=「Climate X」にこそ希望の種がありうるが、それは不断の批判的実践と連帯によってのみ開かれる、と著者たちは強調する。
総じて本書は、気候変動の時代に「誰が・どのような権力と価値観で・地球を統治し・社会を維持していくのか」という、現代における最大の政治的・倫理的課題を真正面から問い直す一冊である。
Author Profile

- 合同会社喜代七 / 喜代七屋 Kiyoshichi LLC / Kiyoshichiya freelance
-
Agriculture, Forestry, Fisheries Management Consultant & Fieldwork Coodinator.
We are working to live our LIFE that can be enjoyed for seven generations. Utilizing my know-how and experience, I am working as a professional consultant mainly in Japan and Germany. My hobbies are Mountaineering, Violin, Academic Learning & Fieldwork.


